『国産自主技術にこだわり続けた男 日立製作所創業者 小平浪平』- 偉大なる創業者の足跡から学ぶ(3) 『我国工場の幼稚なるに驚き・・ 之を振るわしむるは吾人の任務なり』
不平等条約のもとでスタートした明治政府は、欧米列強に追いつき国家の自立を成し遂げるため西洋文明を積極的導入し、殖産興業によって経済力を付ける政策を推進した。富国政策によって日本の重工業が芽生えようとした頃の明治33年(1900年)に大学を卒業した小平浪平は幾つかの職場を渡り歩いた後、東京電燈(現東京電力)に主任技師として入社。
東洋一の出力をもつ発電所を建設して東京に電力を安定供給しようという国の一大計画に参画した青年技師が見た光景は強い失望感を覚えさせるものであった。発電機は独・シーメンス、変圧器は米・ゼネラル エレクトリック、水車はスイス・エッシャウスイ・・・現場でも外国人技術者が要所を取り仕切っており、日本人はこき使われていた。 この衝撃が青年技師に、『日本を近代国家に脱皮させるには、いつまでも外国の機器と技術に頼っているようではダメだ』、『自主技術、国産技術によって電機機械を製作する』という強い信念を持たせた。
このようなとき 日立鉱山を傘下にもつ久原財閥当主から強い誘いを受け、格段に条件は落ちるが電気機械を製作できるかも知れない日立鉱山に入社した。小平は鉱山機械の整備を辛抱強く続けるかたわら、丸太小屋でモータの設計・開発にあたる。 5人の部下と試行錯誤、何度も失敗し苦心を重ねた末にモータがやっと回ったときには、“皆で嬉し泣きした”。わずか5馬力ながらも国産初のモータ3台の完成に漕ぎ着けた。このモータは50年間動き続け、今も日立製作所の創業小屋に展示されている。 (私も日立入社すぐの頃、創業小屋にて見学した)。
続いて200馬力のモータを製作し、自信を得た小平は当主久原から電機機械製造事業の許可を得て、 明治43年(1910年)土地を入手し、念願の日立製作所を設立したのである。このベンチャ企業が幾多の困難を乗り越えて100年の歴史を刻み、今や日本の1%企業(GDPの1%を稼ぎ、1%の人口=100万人の従業員・家族を擁す)と称される規模へ成長し、世界的規模で活発に事業展開するに至っている。
副題に掲げた言葉は、小平が東大在学中に書いた日記の一節。「日本の工業を発展させるためには 自主技術、国産技術によって製作するようにしなくてはならない、それを行うのは自分の任務だ」と学生にして既に気高い志を抱いた、 というのは形容する言葉もないほどに凄いことであり、かつ『高い志の持つ力の大きさ』を感じます。
また、明治の筋金入りのベンチャ企業家小平は、企業経営に当たって様々な取組みやイノベーションを試み、強いリーダシップを発揮している。紙面の許す範囲で我々も参考にし、教訓とすべき事柄を記述したいと思います。
(1)優秀な人材の採用と育成:“日立は自作で発電機を作るらしい”と学生の間で評判となり、創業間もない田舎の会社に帝大出の技術者が沢山入社してきた。昔も今も若者を惹きつけるのは革新的な企業と経営者である。他方では中堅技術者を育てる徒弟学校を創設。 (IT働楽研究所グループも若者から憧れられるような革新的な事業の創生・展開を図っていくと同時に、教育センタを設立し、技術力・人間力をさらに高めるようにしたい)
(2) 中核となる部品材料の自給自足< :故障続きだった変圧器を調査すると、原因の多くは銅線の品質に起因するところが多く、 良質の材料:銅線から自給することを始めた。その結果、変圧器やモータの性能が向上すると同時に銅線そのものの受注にも繋がった。 (当社も中核となる自社技術の醸成と中核技術者を育成を強化する)
(3) 製品の保証と信頼確保 :大正初期、飛躍的に受注が伸びた時期、製品の不具合や納期遅れも多発した。これを反省し、 日立マークを付けた製品を絶対保証するため、原因を徹底究明・品質改善を誓う落穂精神を社内に浸透させている (12月の部課長研修では日立製作所の大先輩から日立精神や落穂精神を学び、品質意識を高揚)
(4) 日本の工場で初めて原価計算を導入 :原価計算は正確な見積りの基礎であり、 日立が強い財務を確立している所以である (課長職以上の方は原価・業績管理の基礎を学び、体に沁み込ませて欲しい)
他にも紹介したいことが沢山ありますが、またの機会とさせて戴きます。私自身、三十数年の日立在職中に、人を育て技術を大事にする企業文化の中で日立精神や落穂精神などから沢山のものを学ぶことができ幸せでした。 この度 改めて日立創業者小平浪平の功績の偉大さを感じ、『高い志を持ち続け実践すること』の凄さを学ぶことができました。皆さんも今からでも遅くはありません、ご自分の志を大きく描き、それに向かって強く歩んで下さい。