『 百忍千鍛事遂全』 “百の苦難を耐え忍び、千の訓練で鍛えれば、目標を達成することができる”  ― 偉大なる創業者から学ぶ④ トヨタグループ創業者 豊田佐吉 ―

 どのような大河もその源流はみな山間のわずかな湧水や清水に端を発し、谷を一つ、また一つ下るうちにあちこちから流れくる水が集まって小川となり、田畑をうるおし、人々の飲み水となり、工業用水を提供し、やがて大河となって水運を与え、海に注ぐのである。  伝統ある巨大な企業もまた創業者の『高い志』が源流となって、“水が岩をうがつが如き”熱き『情熱』が賛同者を動かし、多くの協力者が現れて社会に益をなし、その勢いは増してさらに有用な存在となっていくのである。日本最大の会社にして世界屈指の自動車会社であるトヨタもまた豊田佐吉という創業者の清らかな『高い志』が源流となっているのである。
 1867年 遠江国山口村(現静岡県湖西市:浜名湖西岸)の貧しい農家兼大工の家に生まれた佐吉は、12歳で小学校を卒業すると家計を助けるためにすぐに大工見習いとなった。生来、利発で器用な佐吉は、夜中まではた織りをする母を何とか楽にさせたいと、物置小屋に閉じこもり織機の開発に没頭、苦心と工夫を重ね、自力で足踏み式織機を完成させた。ここに至るまでの過程を次のように述懐している。『仕事が思うように運ばず、苦心懊悩は一通りではなかった。朝から晩まで毎日毎日何かこしらえては壊す、造ってはまた造りなおす。周囲から変わり者、狂人扱いにされたのも至極』。
 そのような中、“僕の夢は『はたおり機でお母さんも、村のみんなも、そして日本の人たちみんなをもっと楽させること』”と確信をもって人生の目標をここに据えた。足踏み式を改良した動力織機の開発に取組むのであるが、わずかな田畑を売って得た開発費は底を突く有様であった。庄屋 石川藤八はこの若き発明家の才能を認め、惜しみない援助を続け、ついに動力織機の完成を見たのである。この動力織機は売れに売れ、日清戦争で疲弊した産業の建て直しに寄与し、国家財政の再建という国策の遂行にも大きく貢献した。  さらに発明・研究を重ね60歳のとき、世界最高性能を誇る完全全自動のG型と呼ばれる『豊田式全自動織機』を完成させた。そしてこのG型自動織機の特許を、当時世界最大の繊維機械メーカであったイギリスのプラット社に売却。そこで得た資金を自動車開発に注ぎ込んだのである。自動車開発は息子・豊田喜一郎の手に委ねられ、さらに製鋼事業をはじめ数々の新事業を興し、今や巨大な企業グループへと発展している。トヨタグループの売上高はなんと53兆円、従業員数32万人を数える日本最大の会社にして世界屈指の自動車会社であり、さらに成長を続けているのである。

 私は、巨大企業の創業者 豊田佐吉がどのような志と夢を抱き、幾多の困難を乗り越えた魂のほとばしりに触れたいと豊田佐吉記念館を訪れました。綺麗に飾られ脚色され過ぎている感はありますが、それでも常に“国家のため、社会のため、人のため”と願いつつ発明に取組んだ情熱が展示物の数々から伝わってきました。トヨタグループという巨大で磐石な経営基盤をもつ企業群の源流は疑いもなく『佐吉の志の高さと熱き魂』であることを感じました。佐吉は、『百忍千鍛事遂全』(百の苦難を耐え忍び、千の訓練で鍛えれば、目標を達成することができる)という言葉を残しています。工業水準がゼロに等しい明治期の、しかも資金力の乏しい豊田佐吉が自動織機開発の夢を実現し、しかも世界最高の製品を産み出した豊田佐吉の言葉には大変な重みがあります。

 翻って現在を生きる私たちの環境はどうでしょうか。工業化は高度に発展し、様々な技術は容易に手に入り、類似のものを製作することはたやすいと言ってよいでしょう。しかし、激烈な企業間競争と過飽和とも言える供給状態の中で真に求められるニーズを探り当て、不安定なグローバル経済環境を睨み持続的成長を実現するためには、次元の異なる『百忍千鍛事遂全』を体現しなければなりません。「百の苦難を耐え忍び、千の訓練で鍛えれば、目標を達成することができる」という豊田佐吉の名言をグループ全員で共有し、前進して参りましょう。勿論、『顧客と社会に貢献』するという志を念頭に置き、活力と連帯感を深めながら、これからの厳しい時代を乗り越えていきましょう。頑張ろう!!

2012年8月