社長の思い

“マネされる商品をつくれ!” (シャープ創業者 早川徳次) ― 偉大なる創業者の足跡から学ぶ(1)

 日本経済もリーマンショック後の深刻な状況から脱して、弱含みながらも何とか回復軌道へ載せたいと各企業も戦略を描いていた矢先に、未曾有の東日本大震災に襲われ何万人もの尊い人命が奪われ、二十兆円にも及ぶ家屋敷・財産、生産設備、公共施設などが失われ、経済活動にも計り知れないダメージを与えています。
 また少子高齢化・人口減少による生産人口の減少とマーケットの縮小、現実味を帯びる国家財政の破綻、医療・年金制度の危機、グローバル化による様々な影響、など気が滅入るほどに困難な問題が我々に迫ってきています。
 しかし過去にも関東大震災、世界恐慌、第二次世界大戦、オイルショック、ドルショックなど時代背景は違えども幾多の困難を極める状況があった訳で、偉大なる企業創業者たちはそれらをどのように克服してきたのかを学ぶことによって、我々が生き残るための知恵や判断の糧を得たいと思います。
 第一回目は、タイトルにありますシャープ創業者の早川徳次の波乱万丈に満ちた人生から一緒に学びたいと思います。

 早川徳次 1883年日本橋生まれ。2歳で養子に出される。継母から虐待され、8歳で金物職人見習いとして奉公に出される。「勉強なんかさせてやらん。働け!」と言って小学校は2年で打ち切られ、死別した親の顔もその愛も知らず、金属加工の職人としてひたすら精進。
負けん気で手先の器用な早川は18歳の時にベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明、作りに作り、20歳で独立を果たす。水道の自在器(共同水道用の蛇口)も考え出し、好評を得た。22歳のとき、「早川式繰出鉛筆」なるシャープペンシルの特許を日米で取得。 企業家として将来が見えかけてきた29歳(1923年)の秋、関東大震災という筆舌を越える試練が早川をも襲う。工場設備一切を一瞬にして焼失。そしてあろうことか妻と二子も失った。不条理に近い債務返済のためシャープペンシルの製造機械や特許権等も売り払った。
 そのときはさすがの早川も『泣きに泣いた』とのことであるが、絶望することなく、悲しみを受け入れ、そして 『なにくそっ』の不屈精神 が鎌首をもたげ、心機一転 大阪へと移り、翌24年早川金属研究所を設立。マイナスからの再起を図った。これが現在のシャープの源流となる。
 今までの早川の努力と情熱と正直さを人は見ている。再開のための事業資金や仕事を出してくれた心ある人に助けられる。江戸時代に始まる大阪心斎橋の石原時計店の店主も大事なお客であり恩人であるが、そんな時早川はそこで米国製の鉱石ラジオに出会う。
 日本でもラジオ放送が始まることを知り、生き残った仲間とラジオの開発に着手。早川はじめ皆金属加工や細工には自信があったが、この機械はまるで勝手が違う。それでも3ヶ月間憑かれたように研究し、実験し作っては壊しまた作った。25年4月、鉱石ラジオの組立てに成功。6月には東京に3ヶ月遅れて大阪でも放送が開始された。工場で聞いた自作のラジオからの第一声はとても明瞭だった。仲間の喚声が響いた。
 このラジオは爆発的に売れ 、まもなくこのラジオに“シャープ”というブランド名を付ける。29年には真空管ラジオを発売。ラジオの普及と共に業績は拡大、社名を早川電機工業に改名。
 ラジオ、テレビ、電卓、液晶、太陽電池と時代をリードする製品を次々と世に送り出していることはご存知の通りですが、日本のエジソンともいわれたこともあった早川は常に、「人にマネされる商品をつくれ」と言い、独自技術の製品にこだわった姿が今日の『シャープのモノづくりのDNA』として生き続けている。  一方で早川は沢山の苦労をしたせいか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1980年(86歳)で没するまで貧しい人、不幸な人、体の不自由な人に援助の手を休めることはなかった。

 早川徳次という偉大なる企業創業者の姿を学ぶときに、我々の研鑽・努力は取るに足りないもので、これから様々な困難が待ち受けていると思いますが、
 (1) 『なにくそっ』の不屈精神で立向いたいものです。
 また、 (2) 後追いでなく独自技術、独自のアイディアによる“マネされる “製品・ソリューションを生み出し、新しいビジネスモデルを構築し、ニッチでもよいのでトップの分野を確立する気概を持ち続けたいと思います。
 (3) 基本と正道を守り社会貢献に繋がる行動を力強くして参りましょう。

2011年6月